札幌(とか)の銭湯を(おふろニスタが)行く

家が火事になりましてね。風呂がないんですよ。で、チャリで札幌の銭湯を巡っていたら、いつの間にかおふろニスタになっていました。中年男性がお風呂が好きだと叫ぶだけのブログです。

22,北区北31条 奥の湯

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札幌市内の銭湯を巡っていると気づくことがある。それが刺青・タトゥーお断りの湯屋の少なさだ。もちろん「お断り」の店舗もあるので、すべてとは言えないが、多くの銭湯で湯屋の華が咲いている。

彫り物について『湯屋の華』と表現していることからわかるように、私は紋々に対する抵抗感がない。もしかしたら小さいころに銭湯で色鮮やかな裸を「おー」と感嘆の声をあげて見ていた経験があるからかもしれない。だから、刺青を日本の「格好いい」文化だと思っている。

だが、知人に銭湯の良さを伝えた際、ふいに

「でも、銭湯は刺青の人が多いっていうから……」

と言われてしまった。

銭湯内において、私はその人の言う「刺青の人」から嫌な思いにさせられた記憶がほとんどない。むしろ常連さんと気持ちのよい挨拶をしているのは湯屋の華が咲いた方であることが多い。

公衆浴場は公衆の場所だ。

誰もが利用できるから公衆なのではないか、と個人的には感じている。なにより、銭湯には紋々がよく似合う。

しかし、銭湯を利用するときに刺青を背負った人たちに不平を持ったことがないか、というと嘘になる。

たとえば、何回か出くわした親分と思わしき偉い人を若い衆が囲んでいる場面。

全裸で『もへーっ』としているさなか、突如、張り詰めた娑婆のシリアスな空気を浴室に持ち込まれると緊張感がはしる。偉い人を中心に湯屋の華々から放射される「近づくな」オーラもそこに上乗せされる。こんなシーンに出くわすと、「うーん」と思う。

とはいえ、である。

とはいえ、一概に「排除」が正解といえるのか。排除や禁止ばかりでは、世の中は息苦しくならないか。

かといって、「寛容」が正解か。各々の感受性の違いを度外視し、誰にも「寛容」を求める社会こそいびつではないか。

一律にルールがひけない問題である。あまりにも難しい。だから、各湯のやり方・理念に頼るしかなくなるのかもしれない。

そんな他人任せな結論に嫌気がさしそうな日々に終止符を打ったのが「奥の湯」の次のルールである。

『湯の華は3輪まで』(意訳)

こんな掲示物は初めて見た。この幾度にもおよぶ自問自答を乗り越えてできあがったであろう規則。一朝一夕で思いつく発想ではない。そして、利用客全員に配慮が効いている。実に乙だ。

また、『ここは公衆浴場ですよ!』(原文ママ)という掲示物もあった。

近所のちょっと元気なお姉さんが幼子をやさしく叱りつけるような文体がほほえましい。

このような、1つのルールに全方位への気配りを込める公衆浴場には、気持ちのいい日常があった。

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 ホースシャワーと固定式シャワーが混在する浴室には、常連さん同士のあいさつが飛び交う。

「こんばんは」

「おお、こんばんは」

「あら、今日は早いね、こんばんは」

私のような一見さんも勇気を出してあいさつすれば、すぐさま受け入れてくれるような、そんな雰囲気だ。

洗い場へ移動し、体を流していると、自然と笑みがこぼれた。「ホースシャワーはやはり使いやすいな」という再確認と「たしかに『ここは公衆浴場ですよ!』だ」という確信からだ。

体を流したあと、私は真っ先にサウナに向かった。いつもはあまりしないルーティーン破りだが、なぜか吸い寄せられた。

なんでだろう。

入ってみると奥の湯のサウナと私はスイングした。妙に居心地がいいのだ。どうやら汗が出るとか、熱いとか、ぬるいとか、そういう問題ではないみたいだ。はて?

不思議な気持ちのまま水風呂へとダイブする。

「なんでだべなー」と頭をひねりながら休憩をしていると、ちっちゃな子の声が浴内に響いた。

「こんばんは!」

3歳か、4歳か、それくらいの女の子がお父さんに連れられてきたようだ。その声に常連さんたちが反応する。

「はい、こんばんは」

「こんばんは!」「こんばんはー、元気だねー」

「こんばんは!」「いい声だね、こんばんは」

「こんばんは!」

繰り返される少女の「こんばんは!」。

彼女は奥の湯であいさつを学んだのだろう。奥の湯という銭湯には学びがあるのだ。

『ここは公衆浴場ですよ!』

その通りだった。

【銭湯を知らない子供たちに / 集団生活のルールとマナーを教えよ】

田村隆一先生の言う通りでもあった。さすが田村先生である。(『20,神宮温泉』からの鮮やかな手のひら返し)

【『あたたかいお風呂。そして、人』奥の湯、絶賛営業中】

田村先生に刺激されたのか、私も激うまキャッチコピーを思いつけた。あとはサウナの謎を解くだけだ。

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奥の湯のサウナは今まで訪れた銭湯に比べてかなり薄暗かった。

いかがわしさすら漂う、淫靡な世界観を思わせる光量。

どうやらこれが心地よさの要因のようだ。

光に照らされたむき出しの美しさではない、想像力をかきたてる陰の美しさ。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』が描いた世界がそこにあった。

思えば、私は銭湯に健康になりには来ていなかった。

自分だけがニルヴァーナへと合法的にトリップするやましさ。その際に感じる全身を愛撫するような肌がチリチリする快楽。そこにある恍惚さ。それが私が銭湯に求めているものだ。

全裸でやましさや快楽、恍惚さを求める中年男性。まったくいかがわしい組み合わせである。私のこの「陰」の部分がサウナの暗さとスイングしたのかもしれない。

「ふふ、とんだワルもいたもんだ。こんな健全な場所で、俺はダークサイドを楽しんでいるぜ。へへへ」

サウナに入りながら、こんなことを考えていた。

我ながら……実にアホである。

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ひとしきりニルヴァーナに達し、私が体を洗っていると、さきほどのこんばんは少女がお父さんから離れ、1人で水風呂を泳いでいた。

水風呂を楽しむ3~4歳の子など初めて見た。それに奥の湯の水風呂はキンキンとは言わないまでも、ひえひえだ。プールよりもずっと冷たいのだ。大丈夫なのだろうか。

そんな心配をよそに、お父さんが止めるまで少女は水風呂を堪能していた。実に通な幼子である。

そんな姿はほほえましくもあり、銭湯文化の力強さが感じられた。

いい銭湯には自然といい客が来る。

そんな昔から伝わる公衆浴場の一側面を、奥の湯は私に教えてくれた。奥の湯には大人にも学びがあるのだ。

次回、中央区南10条『大正湯』