25,手稲区手稲本町 藤の湯
地道な銭湯啓蒙活動は今も続く。そのために久しく会う友人たちとの話題には、意識的に銭湯の合法的トビ方ノススメをあげている。
かつては長らく会えなかった相手にわざわざ銭湯の話をすることに後ろめたさを感じていた。が、今はもうそんな気持ちはない。
我々中年世代は疲れている。その疲れから非合法的トリップが蔓延するのもやむを得ない。かといって、酒を飲んでトラになっても待っているのは依存症への道だ。
だから、知ってほしい。私たちの近くには合法的トリップステーション(方言)があるのだということを。
そんな思いは職場でもあふれてしまった。 ふとした会話の中にも銭湯の魅力を語ってしまうくせは仲間内だろうと職場だろうとお構いなしだ。
私の銭湯プレゼンが熱を帯び始めると、聞き役に徹していた年上の同僚が口を開いた。
「ずいぶん昔、中学生くらいに行ったのが最後かなぁ。ねえ、銭湯って全部あんなに深くて、あんなに熱いの?」
そこがどれほど深く熱いのか、私にはわからない。けれど、自分からふったネタだ。ここで引くわけにはいかない。
「銭湯によって特徴はあるので、全然違いますよ。熱くてびっくりした銭湯、(札幌)市内にもけっこうありましたよ。ところで、その時行った銭湯って何区のどこですか?」
と、銭湯スタンプラリーに載っている地図を開く。
「手稲区なんだけど、もうないんじゃないかなぁ?……あっ、あった。ここ、ここ」
指差す銭湯の名は『藤の湯』。
どうやら私に宿題ができたようだ。
「ていねっていいね」というバカげているのに、1度聞いたら忘れられないキャッチコピーを持つ手稲区。銭湯スタンプラリー初進出の土地である。
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自転車で駆け抜けるには札幌市は広すぎる。それでも自分で課したルールは完遂すべきだ。そんな生真面目さから生まれた億劫が、私を手稲区から遠ざけていた。
だが、彼の言う思い出の中に存在する熱くて深い風呂はいかほどのものか。話題を提起した私には、実際に体験する責任がある。そんな思いが心の中の3年寝太郎を目覚めさせた。
深い風呂は経験済み。南区の風呂~楽。あそこはずいぶん深かった。
熱い風呂にしてもそうだ。始まりの地、豊平区の鷹の湯。同じく豊平区の大照湯。どれもがあつ湯を有していた。
経験は重ねてきている。ダーマ神殿があれば、そろそろ転職ができるくらいにはなっているだろう。すでに私は初心者の皮をかぶった中級者なのだ。
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暖簾をくぐると時間ですよの光景が広がっていた。バンダイスタイル。
「おお、けっこうスタンプ集めてんね?え?あそこから自転車??」
番台からかけてくれる言葉がうれしい。心のどこかで「俺、けっこう変わったことしてるでしょ?」という自己顕示欲と承認欲求が同時に満たされる。
そんな心の汚れも落とすべく浴場へと足を踏み入れるとドットで描かれたタイル絵が目に飛び込んでくる。富士山ではない、どこかの海岸線だ。
どこだろう?見たことがある気がするけど……もしかしたら、かつてあの子と行った神威岬だろうか。心の奥底に封印していた思い出がよみがえった。
忘れていたけど、こんな中年男性にも甘酸っぱい思い出の1つや2つはあったのだ。そんな思いが鼻の奥を刺激する。
いやいや、俺は泣きに来たんじゃない。トビに来たんだ。
思い直すべくかけ湯を浴び、主浴へと歩を進めた。
あっちーーーーーーー
ゴバッ、グボッ
ふっけーーーーーーー
むりーーーーーーーー
この3つの叫びは、私が実際に声に出したものだ。
鼻の奥?甘酸っぱい思い出?そんなもん一瞬で吹き飛びましたともさ。なんとか入ろうと試みたものの、熱湯(「あつゆ」ではない「ねっとう」だ)な上に、ジェットが浴内を循環させている凶悪使用。
無理よ。これは無理よ。
しかし、隣の副湯は小さく常連らしき人が入っている。逃げ場はなさそうだ。あっちぃ、けどがんばる。でも、むりー。いや、もう1回。やっぱむりー。
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こんなおじさんの姿を見て、常連のおじさんも不憫に思ったのだろう。「こっち入りな。今日はこっちも熱めだけど、そっちよりははいりやすいから」と声をかけてきた。
お言葉に甘えて身を寄せ合って狭い副湯につかる。常連さんは言う。
「そっちはねぇ、俺も入れないんだ」
なんですと!?俺も入れない!?
つまり、驚きの常連さんすら入れない温度設定!?
……藤の湯。なんという無茶なことをする銭湯なのだ。
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気を取り直してサウナへ向かおう。
藤の湯はスチームサウナだった。なんちゃってロウリュが体験できる文の湯と同じシステムだ。
サウナを満喫しようと試みるも、さっきの熱湯(しつこいようだが、あつ湯ではない。ねっとうだ)の衝撃が大きすぎる。体に残る熱がスチームサウナの熱を凌駕している。
藤の湯において、ここは逃げ場所のようにしか思えなかった。
小さな水風呂へニルヴァーナを求めてみるも、頭の中で繰り返されるのは「俺は逃げた」という不名誉な事実だ。
何が中級者か。
何が転職可能か。
自分の想像力の貧困さが嫌になってしまう。このままでは、悪しき体験として藤の湯が記憶されてしまう。
逃げちゃだめだ
逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ
逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ
……入ります。僕が熱湯に入ります!僕は銭湯スタンプリー挑戦者・銭湯初心者です!
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呼吸の乱れなど気にしてはならない。
肌の痛みにとらわれてはならない。
1歩進むごとに大量の熱湯をかき分けている事実など確認してはならない。
奥だ。奥まで進め。退路を断て!肩までつからねばならない場所。そこまで進めば、覚悟は決まる。
はぁああ
なぁあああ
ぎゃはふーーん
だっはぁああーーー
ああああああああああああ、もう無理!!!!!
ざばざばっと湯船から飛び出す。もちろん全身の肌が真っ赤になっている。やった!俺はやってやった!逃げろ!水風呂だ。いや、逃げじゃない、これは攻めの水風呂だ!
はぁあああああああああああああああああああああああ
キチャッテルーーーーーーーーーーー
ハイッタシュンカン
イッチャッテルーーーーーーーーーー
テルーーーーーーー
トンジャッテルーーーーーーーー
スーパーシティマイアガッチャッテルーーーー
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ここまで凶悪な熱湯風呂は初めてだった。だが、1度それがもたらすニルヴァーナを体験した私は、何度も何度もその地獄へと足を運び続けてしまった。
体は真っ赤になるのに。
体は痛いのに。
それをはるかに超える快感がそのあとにもたらされることを知ってしまったら、そこは熱湯(ねっとう)ではなく、熱湯(あつ湯)としか思えなくなってくる。
いやだいやだと言いながら、体が覚えてしまったのだ。
凶悪の熱さと深さの湯船をもつ藤の湯。こここそ用法容量を守る必要のある合法的な場所と言えるだろう。
でも、温度計が示していた45℃の表示は絶対嘘だと今でも思っている。