extra4)豊平区西岡『緑の湯』から豊平区中の島『花の湯』へ。そして、小樽市奥沢『中央湯』にいたる。
その日、晴天の中、土砂降りの雨が札幌に降り注いだ。久しぶりの狐の嫁入りだった。
そのとき、私は目の前に温泉がありながら、呆然と立ち尽くしていた。
「2019年3月より臨時休業いたします」
まさに狐に鼻をつままれた気分だ。今は2019年9月。また1つ腐海に風呂がのみこまれてしまった。時代の流れは止められない。
つきつけられた現実を前に、体と心がついていかない。
雨が止み、私は自分の心を癒すためには自然の力が必要だと悟った。腐海の毒の原因は水だ。きれいな水があるところ。そうだ、蛍の住む水源、西岡水源地へ行こう。
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坂を自転車で上る。秋が迫る北海道の寒気を振り払い、たどり着いた森の中で、私をまたしても雨が襲う。今度は雨脚が強く、長い。
坂で流した汗のためか、体が冷えていく。
心が凍えてくる。
まるで世界で自分がひとりぼっちになってしまった気になってしまう。ここは森で、周りに人が一人もいないのだ。
もう坂を上がる気力はない。
坂の下に風呂はないか。体を、心を、早く温めなければ、よくないことが起こってしまう。なにせ私はメンタルとお肌が弱いだけでなく、胃腸も、ついでに体も弱いのだ。
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土砂降りにやられた体を引きずっていると、やがて雨は上がり始める。明けない夜はないし、止まない雨もない。道すがら下校途中の小学生たちが叫ぶ。
「うぎゃー、虹だー!虹なんだよー!!」
「なんだよー」の部分がやけにかわいい。
何気ない風景が少し心を温める。あとはおふろだ。こんなに体は鞭うたれているはずなのに、なんだかいい予感がする。
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さつよく未加入の「花の湯」
暖簾をくぐるとバンダイスタイルの銭湯が広がる。おかみさんがぬれねずみの私に声をかけた。
「あらあら、服かわかしなさい。どうせ、この時間はお客さん来ないから、ロッカー開けっ放しにしていいから。そこに服かけときなさい」
まだおふろにつかっていないのに、また少し温かくなる。
とはいえ、ズボンは絞れるほど濡れている。体は凍え切っている。辛抱たまらず、浴場へといそぐ。
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あつ湯で体を温め、水風呂との交互浴を始める。少しずつ心が体と一致していく。何度かの交互浴のあと、スチームサウナへと場所を移す。
ぬるめのスチームサウナには常連さんと思しき、先客がいた。
「スタンプラリーか何かですか?」
「いえ、ここ組合入っていませんし。スタンプラリーに関係なく自転車で銭湯巡りしています」
「見たよ、自転車。でっかいねー」
「うす」
「実はぼくもけっこう銭湯巡っていてね。あそこ、中央区のでっかい時計のあるぬるいのに汗が出るサウナのある古いところは行った?」
「あっ、鶴の湯ですか?」
「そうそう、あそこなんか汗出るんだよねー」
銭湯好きと話すと有名どころ(スパサフロやほのか、極楽湯など)は出ず、「おまいさんはここ知ってるかい?」という場所が話題にされがちだ。
「じゃあさ、はちみつみたいなおふろには入ったことある?」
「え?『はちみつ』ですか?お湯が?」
常連さんはにやりと笑う。
「そう、『はちみつ』。そこは古い銭湯なんだけどさ、肌がぬるぬるになるんだよ。あそこほどの泉質はぼくは他に知らないなぁ」
「知らないです。どこですか?」
「小樽の中央湯っていうんだけど」
えーーーーーーー
小樽なのーーーーーー
「ぼく、銭湯は自転車で行っていて……」
「あー、じゃあ厳しいか。すごい『はちみつ』のお湯なんだけどなー、中央湯。小樽は神仏湯温泉っていうのもいいんだよ。でも、厳しいよね」
そういうと常連さんはスチームサウナから出ていった。
まるでRPGみたいだ。
偶然巡り合った人が行く先を示唆して去っていく。そこには何かがあるとにおわせるだけにおわせて(しかも、「困難があるから行かないほうがいい」というニュアンスをこめて)、物語の中心にはけっして出てこない。
ゲームの主人公はこんなわずかなヒントに従って命がけの冒険をよくするものだ。いやー、俺、もう40近いおじさんだぞ。できないよ。若くはないんだから。
いろいろと思いを馳せていると、ぬるめのスチームサウナとはいえ、体と心は十分に温まる。
さて、水風呂だ。
でもなー、こんなこと初めてだしなー
おたるかー
おたるってぜにばこのすこしむこうでしょー
いけないこともないかー
だって、こんなあめにもまけずよー
かぜにもまけずよー
じょうぶなからだになったかもしれないしー
カプカプワラエルカモシンナイナ
カモシンナイ
オレヤマナシカモシンナイ
カプカプワラエルカモシンナイ
オタルデカプカプワラエルカモシンナイ
決意のニルヴァーナである。
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台風一過。
札幌には青空が広がっていた。私は自営業者。平日休みがデフォだ。台風が来れば、1日かけてとろとろの角煮を作る予定だったのだが、これは話が変わってくる。
花の湯で示唆された場所、小樽中央湯。行くなら今しかなかろう。私は『迷ったらYES』を合言葉に、「すぐやるマン」として生まれ変わったのだ。今日、小樽へ挑むことができたら名実ともに「すぐやるマン」、略して「やりマン」になれるかもしれない。
よっしゃ、いっちょやってやろうじゃないの。アラフォーなめんなよ!
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調べてみると、中央湯までは片道40km往復80kmあるらしい。ロードバイクなら「まあいけるっしょ」となる距離かもしれない。しかし、私の自転車は冬も乗れるようにファットバイクなのだ。そして、エンジンはただの中年男性だ。
覚悟を決めねばならぬ。
場合によっては撤退も視野に入れる必要がある。
しかし、「すぐやるマン」はすぐやらなければ「すぐやるマン」ではなくなってしまう。
そんな暗い気持ちでのスタートだった。
気持ちは自転車にも反映されるのだろうか。走って5km地点で自転車に異変が起こる。
後輪が外れたのだ。
なんて幸先の悪い話だろう。こんなことは起こったことがない。何者かがやめろとでもいっているのだろうか。しかし、ただ歳を重ねているだけではない。これくらいのトラブルは残念ながら一人で解決できてしまう。解決できてしまうのだから、やめる理由にはならない。
気持ちを切り替えて、自転車を走らせた。なんとか小さなモチベーションの種火を燃え上がらせたにもかかわらず、35km近く語るべきことは何も起きなかった。
おじさんがペダルを3時間回し続け、坂を上り、坂を下り、また坂を上り、坂を下って海が見えた瞬間にあほみたいに「うみーーーー」と叫んだだけだ。
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中央湯にたどり着いたとき、私の脚はカプカプ笑っていた。まっすぐ立てない。まともに歩けない。
ただ胸にこの上ない達成感が湧き上がってくる。
ここに来ることになった巡り合わせ。こんな無謀な挑戦をやり遂げた自分。悪くない。ぜんぜん悪くない。
暖簾をくぐると、中央湯もバンダイスタイルだ。
「壱」「弐」「参」と書かれた渋い木のロッカーの上には雑然と文庫や蔵書が置かれている。池永永一『テンペスト』の文庫に目が行った。その上には裸婦のポスターやら、おなじみのあの子の銭湯ポスターやらが雑然としながら、しかし、何かしらの秩序をもって貼られている。
有り体な言葉で表現すると中央湯には雰囲気がある。それも作りあげたもの、というよりも作りあがってしまったというような類の、だ。
浴場に入ると若干の失望が胸を去来する。
あるのは、ひょうたん型の浴槽が1つ。以上である。
水風呂はない。水シャワーもない。サウナもない。スチームサウナもない。
いつか、あるものを見ないで、ないものばかり見る愚かさを書いたことがあったが、思ってしまったものは仕方がない。
「俺はここに来るために80kmの道のりをチャリで……」
しかし、そんな思いもシャワーで体を流すまでの話だ。
シャワーから温泉だ。それもぬるぬるぬるするタイプの。かつて手稲のあけぼの湯を絶賛したことがあった。あそこもカランから温泉が出ていた。あけぼの湯は「ぬるぬる」だ。中央湯は「ぬるぬるぬる」だ。ぬるが1個多い。
『はちみつみたいなおふろに入ったことある?』
そう、この感触は『はちみつ』だ。ぬるぬるぬるというか、肌がとろとろとする。シャワーでこれだというのだから、おふろは一体……
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浴槽に入るときのオノマトペと言えばなんだろう?
ちゃぽん
だろうか
だろうか
中央湯は明らかに違う。
『とぷん』
入った瞬間から体がとろけ始める。ああ、あの人が言っていたのはこれだったんだ。
サウナ、水風呂、ととのう、ニルヴァーナ
それらを凌駕する快楽。自分がとろけてしまうおふろ。それがここにはある。
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陽もたっぷりと暮れた小樽からの帰り道。坂を上ったり、下ったり、しながら夜風に吹かれて自転車を走らせた。
だが、なぜか心地よい。
風に触れる肌がいつもとは違う。
汗をぬぐったときの額の手触りがいつもとは違う。
ハンドルを握るてのひらすらいつもとは違う。
誰がほめてくれることもないのだが、おそらく7時間前よりも少しだけ私は美しくなっている。それがわかるのだ。
1つの温浴施設の終焉に触れ、それをきっかけにひっそりとたたずむ銭湯で思わぬ出会いと示唆を受け、おそらく行くことなど絶対なかった温浴施設にたどり着いた。
銭湯を巡る冒険に、私はまたどこかで巻き込まれるのだろうか。だと、とてもうれしいのだが。