札幌(とか)の銭湯を(おふろニスタが)行く

家が火事になりましてね。風呂がないんですよ。で、チャリで札幌の銭湯を巡っていたら、いつの間にかおふろニスタになっていました。中年男性がお風呂が好きだと叫ぶだけのブログです。

2-4,中央区南10条 大正湯

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すすきのはこのまま死んでしまうのだろうか。

考えてもみなかった。

飲み屋、アミューズメント、性風俗、それらにまつわる多くの業者、観光。すすきのがもたらす恩恵=税収は、札幌市民が甘受する行政サービスを支えている。

あのネオンは、昼の光の下で生きている札幌市民の人生をも照らしている。

それだけではない。

すすきのは札幌のセーフティーネットとしての機能がある。

すすきのに働くたくさんの大人たち。彼・彼女たちは私たち札幌市民を支えようなんて微塵も思っていない。あたりまえだ。そんな義理はない。

彼女たち(彼らたち)が支えているのは自分の人生、大切な誰か、そして目の前のお客様だ。あるいは、愛すべき我が子かもしれない。

夢や希望や嘘や裏切りや怒りや音楽や笑いや喜びや涙や性欲や酒や食欲や自信や嫉妬や自尊心や承認欲求や薬や快楽や絶望や痛みを伴う劣等感や痛みを紛らわすための優越感。すすきのは、ありとあらゆるものを利用し、もしくは利用され、行政では把握しきれないほどの多種多様な『生きる』を支え続けている。

清濁関係なく。

なにせ生きるには金がかかる。『よく』生きようとすればなおさら。子どもを育むとなれば場合によっては天井知らずだ。手もかかる。時間もかかる。心も砕く。

いっそすべてを投げ出したほうが楽かと思うことだってある。

だが、それをしてしまえば、この子はどうなるのか。

1人でただただ生きるのだってつらい。それなのにいつの間にか自分の人生が自分だけのものではなくなっている事実にふと気づく。そして、愕然とする。

途方に暮れていても、我が子はお腹がすいたと泣く。眠くなっても、おしっこをしても、うんちが出ても泣く。何もなくても泣く。本当は泣きたいのは自分なのに、という思いを押し殺しながらミルクを作る。せっかく作ったミルクには口をつけず、また大きな声で泣く。何をすればいいのかわからなくなる。

誰か助けてほしい。

でも、「助けて」と差し伸べられた手を握り返せる人がどれだけいるというのか。そもそも誰が助けてくれるのだろう。

「自分のことは自分でやりなさい」

「人に迷惑をかけてはいけません」

子どものころから善良で賢明な人たちから言われ続けた常識的な言葉たちによって、よりいっそうどうしようもなくなってしまう。私が助けを求めること自体、誰かの「迷惑」なんだろう。人に迷惑をかけちゃいけない。

「助けて」と勇気を出して差し伸べた手を何度も何度も振りほどかれ、疲れ果て、たどり着いた今。それでもまだ自力で立ち上がろうとする人に何をすればいい。「困ったときは適切な相手に『助けて』って言えばいいんだよ」と助言する?

誰が?

どの口で?

そもそも適切な相手って誰?

俺か?

あなたか?

すすきののネオンは夜こそ輝く。傷ついていればいるほど、その光は行き場を失った人間の居場所を作ってくれる。すすきのの夜によって救われる命が確かにある。

昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか

ニーチェの言葉が札幌を照らす。

すすきのは死ぬのか。すすきのは殺されてしまうのか。

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すすきのからほど近い場所に『大正湯』はある。北へ数百メートル進めば、ネオン街へとたどり着く。

大正湯は華やかな街のそばとは思えないほどオールドファッションな銭湯だ。

バンダイスタイル。

寡黙で不愛想なご主人が少し怖い。

たしか前回は主浴からお湯がぴゅーっと飛び出してたんじゃなかったっけ?んで、サウナ室のガラスにひびが入っていたはず。

大正湯へ向かう道すがら、いろいろなエピソードを思い出す。古くて、ホスピタリティとは無縁な銭湯なのに、何かと記憶に残る場所なのだ。

自転車を止め、大正湯の男湯側の扉を開ける。

驚いた。目の前の脱衣所には何人もの湯屋の華を背負った人たちのいる光景が広がっている。

ふと横を見ると若い男性が服を着てピシッとした姿勢で立っている。まるで何かがあったときにすぐに動き出せるように。

空気がぴりついている。こんなのは初めてだ。

ドキドキしながら、回数券を番台のご主人に渡す。視線はまっすぐ前。こちらに顔を向けることもない。声も聞こえない。ご主人からは少しの動揺も感じない。寡黙なご主人のすすきの的迫力は本職の方々にも引けを取らないのではないかと思ってしまう。

気を取り直して脱衣所で服を脱いでいると偉い人が浴場から出てくる。取り巻きがバタバタと動き出す。きっとどこかの組の親分さんだろう。この人、前に見たことがある。でも、そのときはこんなにピリピリさせてなかったと思うんだけど……

ーーーーーー

「水です!」ジャバ―

「水です!」ジャバ―

「水です!」ジャバ―

うおっ!!

浴場へ入ると入り口すぐの場所で湯屋の華を背負った方が桶に汲んだ冷水を男性にかけている。

びっくりしたー。

あれ?

でも、この光景も、前に見たことあるぞ。

……!?

あっ!

山鼻温泉 屯田湯(2019廃湯:現在は旅館にリニューアルされている)だ!

同じことしてた!たぶん、あのときと同じ人だ!

おー、銭湯を巡っているとこういうこともあるんだねえ。

そう思った瞬間、その人と目が合った。

体に電流が走る。

さっきの親分さんも貫禄があった。だが、この人はなんか違う。怖い。何かはわからないけど、本能でわかる。早く離れなくちゃ。距離を取らなくちゃ。

前回のスタンプラリーから私もずいぶんたくさんの銭湯で湯屋の華を背負った人たちと入浴してきた。

一般のお客さんと気持ちよく挨拶をする方。常連さんと楽しそうに会話する方。浴場でスマホを使って『ルールとマナーにとらわれない型破りな自分』を見せつけてくる輩。

周りを意識している人たちばかりだった。友好的であれ、威圧的であれ。

でも、今回は違う。

誰も周りの目を意識していない。大親分(らしき人)はもちろん、取り巻きの人たちも。

むしろ取り巻きの人たちこそ、周りの目なんて気にしてはいられないみたいだ。

大親分の機嫌をいかに損ねないか。大親分の望むことをいかにスムーズにこなすか。そのことに集中しているように見える。それ以外は彼らにとって些末なことでしかない。正確に言えば、気にする余裕がないくらい緊張感に満ちている。

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熱湯(ねっとう)につかれども、ひえひえの水風呂に入ろうとも、窓から差し込む光を眺めようとも落ち着かない。

どんな生き方をすれば大親分のような空気を身にまとうようになるのか。そして、そんな存在と日々接する人生というのはどういうものなのか。

道の極みであっても、人間関係のしがらみから逃れることはできないのか。それとも、極みの先の先には人から逸脱した世界があるのだろうか。

考えれば考えるほど頭が混乱してくる。

知らない世界がある。自分の価値基準のものさしでは計測すらできない類の何か。

知っている言葉で表そうとするとこれ以外の語彙が見つからない。

知識はあった。本で読んだこともある。映画も見た。だけど、ぜんぜんわかってないということがわかっていなかった。

すれ違うだけでこんなに動揺してしまっている。なんて俺は情けないのだろう。卑小さと想像力のなさをこれでもかと主浴の熱湯の中で痛感する。

でも、大正湯のご主人の無愛想は光だろうが闇だろうが関係ないみたいに見える。誰が相手でも無愛想だ。恐怖・不安・動揺。大正湯はそんな次元で切り盛りされていない。ホスピタリティの存在しない銭湯が、今はこんなにも頼もしい。

すすきので生きるとはこういうことなのかもしれない。

そんなことを薬湯につかりながら考える。

水風呂で我に返って脱衣所へ目を向ける。

そこはすでに光だけの世界になっていた。

今までの光景なんてなかったかのように。

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私の知っているすすきのは、すすきののごく一部でしかない。

すすきのは死なない。死ぬわけがない。それが今回よくわかった。

闇の暗さは私が想像しているより黒く、その光は私には目が開けられないほどまばゆい。今まで漫然と生きていたから、そんなことすら知らなかった。

銭湯には学びがある。

大正湯。

光と闇の交錯点。

光でもない。闇でもない。どちらでもあって、どちらでもない。

ただの温浴施設とは一線を画す存在。この姿が銭湯が『公衆』浴場たるゆえんなのだろう。

日が落ちかけた帰り道、自転車に乗りながら、ふと湯屋に咲く華の方々から聞いた話を思い出した。

B「やくざと一緒に風呂入ってたら落ち着かねえよ」

まったくだわ

でも、おもしろかった。とても勉強になった。

だから、大正湯に行こう。

近くの銭湯に行こう!

次回:未定