村上春樹の『羊をめぐる冒険』だっただろうか。主人公が札幌を歩きながら、整然と区画されている街並みに頭がくらみ吐き気がこみ上げると書いてあった。
いるかホテル。行ってみたいものだ。
氏の言うように、札幌は吐き気がこみ上げる「碁盤の目」だとされている。開拓の歴史ゆえだが、碁盤による弊害は今も残る。
それが情緒のない住所だ。
北4条やら東2丁目やら南3条やら、西18丁目やら。
そこにはアイヌの言葉の名残すらない。あるのはただの基準だけだ。
南北の境の基準は「大通公園」、東西の基準は「創成川」である。そこから何条北に、南にあるか、そこから何丁東に、西にあるか。それだけが住所の由来だ。
この味気ない住所の中には、もちろん少し変わった趣の地域がたくさんある。
1つは豊平川より西にあるのに、東の住所を持つ地域である。
札幌市民にとっては西側だ。しかし、創成川の東にあるから、住所は東。ややこしいけれど、どこか街っぽくないのどかさの「あった」場所。
行政が力を入れたため、札幌有数のおしゃれタウンとなり、今や「創成川イースト」と呼ばれている。
そんな「創成川イースト」にありながら、開発など拒否したかのような、いつまでも頑なに変わらないことを選択したような場所。それが七福湯である。
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東の人間を自負する私は、『街』が苦手だ。札幌の都会度が凝縮されているのが中央区の真ん中あたり、大通、札幌駅、すすきの、つまり『街』だ。
川を超えた向こう側。地理的な隔たりは、心理の奥の奥のほうまで浸透するほどの断絶を生んだ。
だから、どうしても中央区の銭湯は後回しになってしまう。しかし、それでは銭湯スタンプラリーは永遠に達成することはできない。
銭湯巡りは図らずも自分の苦手を克服することに一役買う取り組みになった。
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開発が進む創成川イーストはこの日も工事中だ。マンションなのか、ビルなのか、札幌市民の私ですらあまりの建築途中の建物の高さにおののいてしまう。
私の知っていた下町ではなくなってしまったのかもしれない。
そんな思いは七福湯の暖簾をくぐった瞬間、杞憂に終わった。
ロビーでは常連さんと思わしき男性と女性が酒盛りをしている。見上げれば裸婦の絵画が飾ってある。ロビーの受付には誰も座っていない。
たった1枚の暖簾を超えれば、昔のままの下町が、私が子どもの頃のまま残っているのだ。
なんだかうれしくなってしまったが、受付さんがいなければ、ニルヴァーナにたどり着けない。勇気を振り絞って「すいません」と声をかけると
「はいはい、ちょっと待ってねー」
と常連客かと思っていた女性が声をあげた。
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男湯の脱衣所には湯屋の華を背負った男性が裸でたばこをくゆらせている。掲示物を見ると『毛染めは4月に禁止しました』とある。
「え?3月まで髪の毛染めてよかったの!?」
そう思う私はすでに現代に毒されたただのさとり世代だ。
ここはある時点で時間の流れを主体的に止めた場所なのだ。時代に取り残されたのではなく、時代に左右されず自ら変わらないことを決めた場所。
浴槽、サウナ、水風呂、すべてサイズは小さい。ただ、その小ささにだまされてはいけない。
極冷・無慈悲のバイブラ付き水風呂は、変わらないというとがった決断をそのまま表しているようだ。
ぎゃーーー
ギャーーーー
ギャーーーーーフーーーーーン
ハーーーーーーフーーーーーン
カラダマッカナノニーーーーーー
ツメタクテマッカナノニーーーーーー
気がつけば、灰皿の向かいに全裸のだらしない顔をしたおじさんが1人座っていた。
キンキンに冷えた、いや望月湯以来のチンチンに冷え切った水風呂を体が受け入れた。強烈な水風呂がもたらすニルヴァーナはあまりに深かった。
ああ、確かにこの瞬間に吸うたばこはさぞかしうまいだろうなぁ、と禁煙したことを後悔してしまった。
大満足の心持ちで帰路につこうとすると、ロビーはさらに盛り上がっていた。
「水風呂最高ですね」
と声をかけると
「ああ、こんな水風呂、ほかにはねえよ」
と常連さんらしき男性が答えた。
その誇らしげな表情が、七福湯と過ごした時間を物語っていた。
なんだか名残惜しい気分でポケットをまさぐりながら「くつばこのカギどこだっけ……」と独り言をつぶやく。
すると後ろから年配の女性が声をかけてくる。
「くつばこじゃないよ!下駄箱だよ!」
平成はもうすぐ終わる。けれど、七福湯はこれからも変わらずに昭和でいてくれるはずだ。
次回、南区南33条 『寿湯』