⑨鷹の湯
調子が悪いとき、自分の衛生面への配慮が消える。
生きている意味がない。意味がない『私』。そんな『私』に手をかける意味なんてあるわけがない。
「論理的であるかのように見える方法」で自分を放置という名の虐待をする。
入浴がずさんになり、髪は脂で汚れ、肌は荒れ、爪は伸び放題になり(私は逆に詰め噛み癖でぐちゃぐちゃになる)、着替えも、歯磨きも、洗濯も、掃除も、食事さえも、どうでもよくなる。
意味がない『私』にはすべて意味がないからだ。きれいであろうと、きたなかろうと。美しかろうと醜かろうと。
こうして『私』は俗世間と離れていく。「恥」だけは立派に潜在意識に根付いているからだ。
壊れた私もとても危うい状況にあった。世間と少しでもつながっていなければ、『私』とまったく同じ人生になってもおかしくなかった。
友人。
病院。
銀行。
そして、お風呂である。
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この2か月、あれほど通い詰めていた鷹の湯へは1度しか行っていなかった。ずっとシャワーしか浴びていない。いや、シャワーすら浴びない日のほうが多かったかもしれない。
シャワーを浴びることがギリギリで、歯を磨くことも少なくなった。おかげで虫歯も増え、親知らずも抜いた。
だが、最近ようやく生きる気力が戻ってきつつある。(生きる『意味』が見つかったわけではない)
私にとって、生きる気力とは銭湯に入ることだ。大きい風呂につかり、サウナに入り、水風呂で体を冷やす。
札幌市中を自転車で駆け回り、かつてはたっぷの湯や番屋の湯も「チャリで日常的に行ける」範囲としてとらえていた。
それなのに、徒歩5分の鷹の湯すら行くのに難儀する。
そんな状態から、私は少しだけ抜けつつある。
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少しだけ調子のよさを感じながら、朝から銭湯に行くことを決めていた。
喜楽湯
扇の湯
七福湯
末広湯
どこに行こうかな。
ずっと考えていたが、通院の帰り道、自分の調子が尻すぼんでいることを実感し、やはり近所の鷹の湯にすることにした。
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まだ陽のあるうちから銭湯に行くのはぜいたくだ。
停まっている自転車も車も多い気がする。お風呂上がりと思われるお姉さんがタバコをくゆらせている。夕日は36号線を照らしていた。
暖簾をくぐると懐かしさがこみ上げてくる。たった20日間とちょっとぶりなのだが、これまで鷹の湯へ通う期間がここまで開くことがなかったのだ。
前回は今度いつ銭湯に行けるのかがわからなかったため回数券を買うのをためらっていたのだが、今回は回数券も買う。
ご主人は言葉少なく「今日の分の1枚もらうね」とポツリと一言。
これくらいの会話がちょうどいい。
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浴場に入るとちょうど入れ替わりのタイミングで、貸し切り状態になった。
高い天井に大きな熱湯風呂。
今は私だけのものだ。
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周りの目がない今、タフなセッションを試みることにした。
熱湯→水風呂→熱湯→水風呂→熱湯→水風呂→熱湯→サウナ→水風呂→休憩(床におっちゃんこスタイル)
熱湯風呂のバイブラ煮え立つど真ん中に陣取りしばし体を痛めつけ、すぐに水風呂で体を冷やし、さらにすぐさま茹だつ釜の真ん中へ。
せわしないことこの上ない。
しかし、体が高まっていく。
しばらくぶりの鷹の湯を俺は味わっている。そして、繰り返される茹で釜とキンキン水風呂によって繰り返される諸行無常からサウナへと移行する。
入った瞬間から汗が止まらない。
鷹の湯のサウナはかつてに比べて熱くなっている。燃料が高騰する今、熱湯との両立は緩くないはずだ。それでもセッティングはきつくない。ぬるいとまでは言わないが、熱いサウナとは言えない温度設定だ。
しかし、汗が止まらない。
周囲に人がいないゆえにできるおかしな動きが、かつてないほどの発汗を作り上げたみたいだ。
苦しい。
きつい。
ああ、俺はなんて無茶をしたんだろう?
バカなんじゃないだろうか。いや、バカだな。もう無理だ。バカなことをした。
そんな気持ちを抱えて水風呂にざぶんと飛び込む。体中がギュンと縮こまる。
サウナマットをお借りして、熱湯とぬる湯(熱湯)の間でおっちゃんこする。
俺はバカなことをしたんだな。バカか。ふふふ。バカでいいじゃん。そんなことを思う。
生きている。
バカでも、なんでも、俺は生きている。
バカだから生きている実感が生まれる。
バカダカライキテイルジッカンガウマレル
バカダカラキテイルジッカンガウマレル
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生きている意味があるのかどうかはやっぱりよくわからない。だけど、生きている『今』を認識できる心と、きれいな体は手に入った。
もうすっかり暗くなった空を仰ぐと何年振りかにタバコが吸いたくなった。
だが、喫煙所ははるか遠くだ。
また、吸いに行ければいいのだけれど。