⑤ 鷹の湯
『銭湯に行く』という行為が日常に溶け込んでいた。
それも壊れてしまう前の話だ。
自分が壊れかけていることに気がつかない時期ですら、入浴という行為が自分からどんどん遠く離れていった。簡易にシャワーで済ませ、散髪の機会が減り、掃除・洗濯の回数が減っていく。
『めんどくさい』
その一言に集約して自分を納得させる。けれど、本当は違う。
それは『めんどくさい』のではなく、今までできていたことが今まで通りに行うのが難しくなっているだけだ。
『めんどくさい』というのは便利な言葉だ。多くの場合、説得力があり、どうしようもなく強力で、わかりやすい。
けれど、その強力な説得力に隠れて、「今まで通りにはいかなくなっている自分」が無意識の海でもがいている。それなのに、わかりやすさという暴力的な秘匿性によっておぼれかけている自分の存在に気がつけない。
銭湯に行く。
かつての私の日常だったはずの、今の私にとっての非日常。
取り戻すにはまだ時間がかかりそうだ。でも、やっと鷹の湯に行くことができた。
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今日は月初めの変わり湯の日だった。
変わり湯の日の鷹の湯は、通常営業の熱湯(ねっとう)の湯船が変わり湯のぬるめになっている。
鷹の湯通の人には信じ難い話かもしれないが、通常営業では『ぬるめ』と書かれているのに熱いが、今日は本当に『ぬるめ』だった。
そして、いつもがぬるめの湯船が熱湯。
鷹の湯に本当の『ぬるめ』が出現するのは変わり湯の日だけだ。
さらに変わり湯の日には『最熱(さいねつ)』の湯船が出現する。
いつもは『ぬるめ』と書かれた熱い湯の湯船が『熱湯』の湯船に変わることによりいつもの『熱湯』よりはるかに熱い鷹の湯にとって最も熱い湯になる。
それが『最熱』のちび熱湯風呂だ。
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久しぶりの鷹の湯(というか銭湯)の熱湯。
「……ん……つううう~~~……くはッ!!」
声が出る。
黙浴の徹底が叫ばれるここ数年のパンデミックにあるまじき話だし、第一、今の私は本当に元気がない。
でも、でちゃった。
声。
でちゃった。
それくらい。
すごいのよ、最熱。
そのあとの水風呂がとても冷たい。
ああ、これだ。これが鷹の湯だ。
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ローズヒップの湯は鷹の湯ではありえないくらいの『ぬるめ』。茶色い湯にどこかで嗅いだことのある漢方の香りが立つ。
熱湯と水風呂の交代浴のあと、ぬるめの大きい湯船の中で体中が弛緩するのがわかる。
思考のループが止まる。
体の『快』に身を委ねることで過去と未来から『今』が分離される。
そこには鷹の湯によって生み出される実に鷹の湯的な鷹の湯だけで得られる時間が流れていた。
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これがかつての私には日常だった。
めんどくさいの水面下に私の足をつかんで離さない何かの存在をはっきりと認識できた今、「鷹の湯(銭湯)に行く」という最初の一歩を踏み出すことが難しい。
それでも、そこには今と切り離された『今』を味わうことができる瞬間がある。
それはわかっている。
それはわかっているのだけれど……