extra14)豊平区豊平 鷹の湯
冬の始まりにはきまって男の子の日が始まる。きまってだ。
体の中に澱がたまり、心の中で血が流れる。笑顔でいるためにはふだんと違う筋肉を使うし、なぜ自分が生きているのかの意味が必要になる。でも、意味なんて見つかるわけもなく、さらに見えない血が流れることになる。
男の子の日が始まったら耳をふさいで寝込むことしかできない。
歯を磨くのも、お風呂に入るのも苦痛だ。ふさいだ耳の中に雑音が聞こえる。そんな声なんて聞きたくないから、スマホを使って怒りを探し出す。
間違っている自分を見たくないから、自分より間違っている(ように見える)人を見つけに行く。もしくは、「こいつは間違っているぞ!」と声高に叫ぶ何者かが指摘する人を見に行く。
怒っている人たちとともに怒りを奮い立たせる。怒りほど生命を輝かせる感情はない。
ただその輝きは何も照らさない。
社会正義を振りかざしている人たちの中に自分の身を置いても、自分こそが社会正義の名において裁かれる存在だ。
どこにもたどり着かない思考が布団の中を巡る。
だが、私は知っている。
この思考は熱に弱い。45℃以上の熱に溶ける。
男の子の日に流れるのはメタファーとしての血だ。比喩としての澱だ。その事実に申し訳なさを感じながらやっとの思いで立ち上がる。
雨が降っている。体も重い。遠くまで行ける気がしない。
そんなときに近所の銭湯が救いだ。
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いつもの場所に、いつもと違う時間に訪れる。
月見湯のステッカーが貼られた自転車がとまっている。
それを見てマスクの下で少し笑う。いつもと同じ筋肉を使った笑顔だと思う。
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燃料の高騰が激しい。
熱湯を維持する鷹の湯にいらぬリスクがかかる。「いっそやめてしまえば楽になれるのに」そんな思いも浮かぶ。でも、私には熱で溶かさねばならぬ暗喩があり、そのためにはそれ相応の高温がいる。今まで通りの鷹の湯がいつまでもそこにあってほしいと思う。
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17時の鷹の湯もいつも通りの熱湯を用意してくれている。
バイブラで煮立つ湯の表面に泡がはじける。そこに光が反射され、白銀に光る。繰り返される乱反射が高い天井に吸い込まれる。見上げると天井に開いた小さな穴に真っ暗な夜空がのぞく。
よくないたとえたちが溶けていく。
そしてゆるんだ頭を水風呂でしめる。光の屈折によって透明なはずの水が淡い色合いの変化を見せる。
体に輪郭ができる。17時にして、ようやく。
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鷹の湯のサウナ室の温度も最近は上がっている。
だが、熱くなったとはいえ、鷹の湯のサウナはやわらかだ。熱湯の容赦のなさで体をあたためたあとでも、ゆるやかに発汗できる。
熱湯と水風呂の繰り返しの果てに待つサウナ室での穏やかな時間。ボイラーの音しかしない。のんびりと熱に身をゆだねる。
腕に流れる汗の玉を見つめる。
汗は毛穴から出る。
そんなあたりまえの事実すら目の当たりにするまで気がつかない自分のうかつさすらどうでもよくなる。
汗は毛穴から出る。
それだけでいい。それいがいのじじつはいらない。
あせはけあなからでる。
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鷹の湯を出ても、雨は変わらず降っていった。
でも、少しだけ男の子の日は軽くなった気がする。
気だけでいい。
何もしなければ、布団の上で腐っていただけだ。
時間は19時。
1日が始まるには少し遅い時間だが、1日がはじまっただけでよしとするか。
私には生きている意味なんていらない。汗が毛穴から出るという事実に比べたらそんなものとるに足らない。それを忘れなければ、これからも男の子の日とうまく付き合っていけるかもしれないと思った。