時の流れは誰にも平等だ。
時間は心の傷を癒す最良の薬だという人がいる。かたや老いをもたらす悪魔だと断じる人がいる。平等ゆえに受け取り方はさまざまだ。
何が間違いでどれが正しいのかなど誰が決められるだろう。相手があまりにも巨大で、絶対的すぎる。
だからこそ、その壁を突き破ってみたい。その思いはつねに胸の中にある。私はそのタイムリープへの渇望を子どものころからさまざまな創作で満たし続けてきた。
『バックトゥザフューチャー』なら何度も観た。『JIN』は全巻持っていた(が、燃えた)。『ドラえもんのび太の恐竜』から始まる大長編シリーズも集めていた。『時計館の殺人』……はちょっと違うか。BGMはサディスティックミカバンド『タイムマシンにお願い』をかけ、夢中になったゲームは『クロノトリガー』に『ドラクエ7』。挙げていけばキリがない。
画面の中、物語の中にしかなかった憧れのタイムトラベル。フィクションの中にしか存在しないはずのもの。
それが現実の世界でも実現可能だと言ったら、あなたは信じてくれるだろうか。
もちろん簡単なことではない。ちょっとした気の持ちようと工夫は必要だ。だが、嘘ではない。信じる者はラムネすら薬にできる。
タイムスリップ先は戦前昭和10年ごろ限定。場所はすすきのから少し南、札幌市中央区南19条。
タイムマシンの名は「鶴の湯」
少し限定的な時間旅行。札幌の銭湯で体験するというのはいかがだろうか。
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七福湯を『6』の項で「時間の流れを主体的に止めた場所』と書いた。『11,美春湯』ではかの湯を「残すものと変えるものを可能な限り両立させようとする銭湯」と書いた。
2つの湯の感想はあくまで「今」に根差している。
しかし、どうだろう。鶴の湯は一歩足を踏み入れるだけで自分がいつの時代にいるのかがあやふやになる。自分の足元がぐらつくのだ。
混乱の原因はいくつかある。
まず、なぜか遠くから聞こえる音の不思議だ。テレビはついている。お客さんだっている。でも、それらはまるでずっと向こうの音のように聞こえる。だから、自分の周りは静寂に包まれているような錯覚に陥る。
次に、目の前の景色がどこかで見た昔の写真そのままなこと。それなのに、色が鮮やかなのだ。古い写真なのに色が褪せていない。それがまた私を混乱させる。
そして、番台に座る物静かな森光子風おかみさん。
思い出の中にはないけれど、記憶の中にしまわれている銭湯像が視覚、聴覚、もしかしたら嗅覚にまで再現されているかのようだ。
五感が時間を狂わせる。
戸惑いを鎮めるために番台の後ろにある時計を見る。今が何時かを確認する必要があるからだ。するとさらに頭がこんがらがる。
老婦人の後ろには、銭湯には似つかわしくないまったく馬鹿げたサイズの時計が鎮座している。直径1m以上はあるだろう。白うさぎの時計、もしくは雷が落ちる時計台のシンボル。
「1.21ジゴワット……」
何人がこの時計を見てつぶやいただろう。
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不思議な木の箱のような外付けサウナ室をしり目に、浴室へ足を踏み入れる。
かぽーん
幾度となく漫画の中で見てきたオノマトペだ。今まで私は、これは『擬音』だと思っていた。たとえば、誰かが使った桶の音であったり、湯船に流れ込むお湯の音であったり。
しかし、鶴の湯は教えてくれる。『かぽーん』は擬態語だ。『かぽーん』は『かぽーん』という状態をさしている言葉だったのだ。「ぶらーん」や「しーん」と同じ種類の言語。
『かぽーん』
これはタイルが剥げている富士山かもしれないし、浴室の真ん中に鎮座する主浴と、それに付随する水風呂のことなのかもしれない。体を洗っているおじさんのことかもしれないし、外付けのサウナを楽しむふくふくな少年のことかもしれない。
そのすべてが生み出している静寂が『かぽーん』ということなのかもしれない。では『かぽーん』は擬音語なのか。いや、静寂はそもそも音なのか?
いつまでも戸惑い続ける頭を振り、いつものルーティーンを始める。規則正しさは、荒れ狂う人生の波を乗り越えるための指針になりうるのだ。
ルーティーン1セット目のサウナ。初めての外付けサウナである。
サウナ室のぬるさは温度計を見るまでもない。
「ちょっと寒いくらいだな」と思わずうそぶいてしまう。やはり人間、余裕のないときはつい攻撃的な言葉が口をついて出るものだ。
それなのに、しばらくするとあとからあとから汗が噴き出してくる。
これくらいじゃ、汗も出ないつもりでいたのに!
あとでこっぴどくののしるつもりだったのに!
東豊湯や望月湯の熱サウナにも耐えられるようになったのに!
そんなに安い体じゃないはずなのに!
でも、出ちゃう。どうしても出ちゃってる。残念ながら体は正直だ。
ということで次は水風呂。180cmの私が足を伸ばしてギリギリの広さだ。バイブラなしの初心者向け。けれど、しっかりひえひえだ。
そして、休憩。
休憩はどこでしようか。ああ、これはあれができるかもしれない。北都湯で試した休憩方法。地べたにだらしなく座る丸出しスタイルである。なんだかその休憩方法が「今」にはふさわしい気さえした。
そう、俺は今戦前にいるのだ。
プライバシー、アイデンティティ、コンプライアンス、エビデンスにプライオリティ、すったらもんのかけらもなかった時代。
だれもが共同体の一員だった時代。
隣人にあいさつすることすらはばかられる時代は、今から100年後の話だ。今の俺には関係ない
いまのおれ?
イマ?イマッテイツ?
イマデウス?
モーーーーツアーーールト!!!
アイキルドモーーーーツアーーールト!!!
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存分にニルヴァーナを堪能し脱衣所に戻ると、先ほど見たふくふくの少年がイスに座っていた。あの歳でサウナと水風呂を楽しめるなんて、私の時代には考えられない話だ。さすが戦前である。
これから日本は激動の時代を迎える。私は知っているのだ。志と狂気、命と目的、現在と未来がむりやり天秤にのせられる十数年……君はどう過ごしたのだろう?
と、思っていると少年はおもむろにiPadを取り出し、ゲームに興じ始めた。
「100年はもう来ていたのだな」とこの時初めて気がついた。
次回、中央区北3条 神宮温泉