私は美しいおじさんになりたい。
とはいえ、もう美しい心を手に入れることはできない。もう美しい顔を手に入れることはできない。
可能だとすれば、美しい体を手に入れることだけだ。
だから、私は令和元年を記念して、筋トレを始めた。日々、自転車には乗っているので、これで美ボディへの道は約束されたようなものだ。
だが、私にはこんなことを考えてしまう残念なメンタル以上に醜い部分がある。それが幼少期からアトピーによって蝕まれ続けた肌である。
筋トレやサイクリングではどうにもならない問題だ。それでも希望はあった。日々の銭湯通いがやがて私の体から黒ずみを消してくれるかもしれない、と。
多くの銭湯には常連客がいらっしゃる。そして、その多くが美しい肌を持つおじさんばかりだ。各銭湯に咲く湯屋の華を持つ方々にいたっては、その美しさに息をのむほどだ。
それでもなお、である。
1年をかけて銭湯に通い、ニルヴァーナへ到達し続けて、なお。私の体には醜い黒いしみが全身に残り続けている。
美しいおじさんへの道は閉ざされてしまったのだろうか。
いや、そんなことはない。札幌には、手稲区には、『あけぼの湯』があるからだ。
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実は、以前、あけぼの湯には1度フラれている。
フラれ気分で訪れたのは、同じく手稲区の恐ろしく深くて猛烈な熱湯(ねっとう)の湯船を持つ「藤の湯」だ。ここの熱湯(あつゆ)でトビまくったのだが、その詳細は「藤の湯」の項で確認していただきたい。
フラれた相手への思いは一層強くなるもので、片道25kmの道のりは以前より短く感じたほどだ。
嘘だ。本当はものすごく疲れた。それこそ余裕がなくなるくらいの疲労感だ。私はなんちゃってサイクリストで、中年なのだ。
期待の大きさはえてして失望を生みやすくするし、体の疲れは心の余裕を奪い、物事を斜めに見がちにさせる。あけぼの湯にたどり着いた時点で、私は御しがたい人間心理の妙にとりつかれていた。
いつもなら称賛をもって迎え入れるカラフルな壁や、笑顔で見つめるであろう入り口にある置物。ロビーにあるあぐらのかける休憩スペース、脱衣所のゴム付きロッカーキーに見える利用客への心遣い。そのどれにも食指が動かない。
それほどまでに疲れてしまっていた。不満も噴出し始める。
25kmのサイクリングでカラカラに渇いたノドを潤すために飲んだ飲料水もぬるい。
ボディシャワーは故障中だ。
打たせ湯も故障中だ。
オレンジ色のキノコ型をした椅子も座りづらい。
おそらく風呂道具を載せる台だろうが、いまいちなんのためなのかわからないものがど真ん中に居座りすぎだ。
電気風呂は、本当に電気が流れているのかも怪しいくらいだし、水風呂はぬるすぎる。
なんなんだ。なんなんだ。
主浴の熱さから逃げ、副湯の横のラドン温泉の説明を読む。また、ラドン温泉だ。どうせスーパー宇宙パワーの類なんだろう?いいレスラーだったけどさ!
もう!もう!
サウナに入り、水風呂に入り、ぬるくてぬるくて。飲料水を飲むと、これまたぬるくてぬるくて。
もう!もう!
この時点で、私は自分の体の異変に気がついていない。ニルヴァーナを越えた体の変化。あけぼの湯が過去最大級の衝撃をもたらす。
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ぷりぷりしながらキノコ型の椅子に座って休憩していると、なんだか腕と脚との接触部分の感触がいつもと違う。
ん?
少しすりすりしてみる。
ん?
ぬるぬるしている?
なんで?
全身をなでなでしてみる。そこかしこがぬるぬるしている。
なんで?
頭に浮かぶ「???」を抱えながら、副湯の横のラドン温泉の説明をもう1度読んでみる。
「ラドン温泉」の横に『人工』の文字がないッ!!
すすきのの喜楽湯にあるのは「『人工』ラドン温泉」。ブラックシリカなどの説明にも必ず『人工』の文字があるものだ。
「もしや……?」
脱衣所に戻り、掲示物を探す。
見落としていたが、浴場への入り口には「湯の色は天然温泉の成分によるものです」とある。脱衣所の入り口には昭和56年とかかれた温泉の成分表が貼ってある。
「ここ、温泉じゃねえかッ!!!」
これですべてつながった。水風呂のぬるさは、源泉かけ流しの証明なのだ!たぶん。飲料水のぬるさは源泉のままを飲めるようにしているのだ!おそらく。
ということは、電気風呂やボディシャワーの故障は、温泉成分との相性のせいなのではないか。きっとそうだ!ナトリウムとか、なんかが、あれと反応しあって、こう、電気的なものが、ばーんって、こう、あれしちゃったのだ!
それにしても、だ。
ここまで「天然温泉」であることを宣伝しない銭湯がかつてあっただろうか?中央区の山鼻温泉だって、もう少し温泉推しをしていた気がする。
この宝を生かしきれないあけぼの湯の不器用さがもどかしい。なんだかいつもよりサウナと水風呂に没頭しきれない。もう頭と体洗っちゃおう!(※お風呂に入る前にも軽く洗ってます)
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ニルヴァーナに到達せぬまま、洗髪洗身を始めるとさらに恐ろしい出来事が体に起こり始める。
洗えば洗うほど、髪や顔や体がぬるぬるし始めるのだ。
あけぼの湯はカランやシャワーにまで温泉を使っている!
確認する必要もない。もしそうでなければ、私はシャワーでぬるぬるし始める化け物ということになる。スライムになるのは転生した後でいい。
洗えば洗うほど、流せば流すほど、肌がつるつるしていく。体をこするのがこんなに楽しい銭湯がほかにあるだろうか?
髪が!
顔が!
腕が!
胸が!背中が!尻が!脚が!
みるみるつるつるになっていく。
周りの常連さんを見てみると、どの銭湯の常連さんよりも肌がつやつやだ。というか、周りには(肌の)美しいおじさんしかいないではないか!
信じられない。
これほどまでの泉質。これほどまでの美肌効果。カランやシャワー、飲料水まで温泉水を使うというこだわり。水風呂にいたっては源泉かけ流しである。たぶん。
どうして宣伝しないのだ!!スタンプラリーの紹介文には「温泉」の「お」の字すら書いていないではないか!
こんなに(肌の)美しいおじさんを量産しているというのに!
これが440円だというのに!
こんなにすげえところが知られていない、知らせていないってのはどういうことなんだ!
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湯から上がり、脱衣所で鏡に映る自分の姿に驚いた。
体の黒ずみが薄れている!気が!する!
全身はつるつるのつやつやだ。顔は知らず知らずに笑顔になっている。来たときの心の汚れも落ちたのだろう、斜めの目線は消え、感謝の気持ちであふれている。
肌だけではない。表情や心すら来たときよりも美しくなっている。気が!する!
ボディシャワー、打たせ湯が壊れているからなんだ。
サウナが狭いからなんだ。
水風呂がぬるいからなんだ。
あけぼの湯は、布団に入って眠るまでずっと肌がしっとりし続ける、札幌随一の『美中年の湯』なのだ!
……とはいえ、往復50kmの自転車がつらすぎる。美しいおじさんへの道のりは、私には文字通り遠すぎだった。
次回、西区八軒『琴似温泉』