ここしばらくの間、男の子の日を引きずっている。
空想上の子宮から見えない血が流れ続けて、ありもしない卵巣が悲鳴をあげている。
しかるべき場所で、しかるべき人から、しかるべき判断をされたら、しかるべき処置をされかねない状態だ。
もともとお肌とメンタルと胃腸が弱いたちなので、自分がカバーできる範囲を半径数メートルの狭い領域で生きてきた。だが、最近ではその半径数メートルの中にいる大切な人たちのことすら大事にできない。その事実が自分に突き刺さってくる。
アラフォーのおじさんなのに、生きているだけで自分を嫌う理由が見つかる日々だ。
こんな情けない話を相談できる相手などいない。その事実もまた私を打ちのめす。
しかし、ここで、ダンスを踊るのをやめてしまったら、もう2度とステップを踏めなくなりそうだ。ダンスは踊り続けなければならない。だから、私は『自分を好きになれるかもしれない理由』を手に入れる必要があったのだ。
そのためなら、いろいろなところに自転車を走らせた。
自転車で山に登り、峠を越え、130kmの道のりを走ってみた。
それでも見つかりはしない。けれど、見つけないわけにはいかない。あらゆる場所で探し続けるしかない。
向かいのホーム、路地裏の窓、旅先の店、新聞の隅。
こんなとこにあるはずもないのに。
だが、今日、やっと答えが見つかった。
場所は北広島。
『天然温泉 森のゆ』
ここに答えがあったのだ。
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銭湯スタンプラリーを終え、終盤戦の畳み込みに少々疲れてしまった。
スタンプをもらうために銭湯に行く。
お風呂を楽しむために銭湯に行く。
結果は同じでも、圧倒的に私は前者に向いていないことがわかった。だから、「スタンプラリーはもうやめよう」そう決心した。
いろいろなお風呂を楽しみたい。そんな思いから、この数か月はさつよくに加盟していない銭湯やスーパー銭湯、サウナイキタイ(https://sauna-ikitai.com/)で見つかった素敵な施設を巡っていた。
もちろんチャリで。
それは先述の長く続く男の日にも関係している。
『サ道』の中で、蒸し男くんが言っていた。(うろ覚え)
「サウナに入ることで、思考の世界から感覚の世界へ逃避する」
その必要がどうしてもあった。感覚の世界にいる間だけは、私が私の敵ではなくなってくれる。
銭湯にいる間、チャリで疲れすぎている間、そんな思考の世界からの逃避行。
いつまで続くかと思っていた終わりのない逃走劇の出口の光は、やはりお風呂にあった。
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札幌には2つのサイクリングロードがあり、白石区から北広島市に伸びる『こころーど』は途中で森のトンネルをくぐるポイントがある。
まるで自分がネコバスにでもなった気になれる、最高の場所だ。
その先に、どうやら天然温泉の温浴施設があるらしい。それが『森のゆ』だ。
『森のゆ』に入るとすぐに期待感が高まった。
靴のロッカーに100円を入れなくてもいいのだ。
わずかなことだと思うだろうか?「ささいなわずらわしさすらここには必要ありませんよ」と言われているようで、今の私には心にしみる。この心遣いが私にあれば、もっと周りを笑顔にできたのに……いかんいかん、男の日が出ちゃってる。
受付を済ませ、お風呂に向かう間に『飲む温泉』なるものが蛇口からあふれていた。効能がいろいろ書いてあったが、よくわからない。だが、試しに飲んでみる。よくわからない。
だが、よくわからないこともチャレンジするような感じは嫌いじゃない。うむ、いい傾向だ。
脱衣所のロッカーにももちろん100円は必要ない。ありがたい。
浴場の前にある水を全裸で一口飲むとキンキンだ。さぁ、体と心の準備はできた。いざ!
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圧巻である。
浴場向こう正面は一面窓になっている。その先には森が広がっている。余計な壁などない。ででん!と森なのだ。
内風呂の中には茶色く濁った温泉が広がる。モール温泉だ。しかも、美中年を目指す私の大好きなぬるぬるするタイプのやつだ。
我慢などできない。早く!早く外気浴までたどり着かねば!!
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高温の温泉で肌をぬるぬるさせ、深めキンキンの水風呂で交互浴。ぬるめ温泉でぬるぬるさせ、深めキンキン交互浴。
そして、サウナ。
熱すぎもせず、ぬるすぎもせず。なにより、窓から森が見える。いい。とてもいい。早く時間が過ぎてほしい。
俺は何より外気浴がしたい!
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1セット目を終え、外に出ると森だけではない景色が広がる。
手前には蓮の葉が浮かぶ川が。その向こうには、汽車が走っている。そのさらに向こうは青空に同化せんばかりの山々が。
多くの銭湯、スーパー銭湯の露天風呂には壁がある。『森のゆ』にはそれが必要ない。そこには、私たちのささやかなおちんちんを見る人間がいないのだ。
椅子に座り、ぼんやりと山の木々を見る。
緑だ。圧倒的に緑だ。
ただ、緑と一口に言っても、場所によっては少し色が違うように見える。場所によっては、オレンジ・赤に紅葉している。
遠くに見える山は緑に萌えているはずなのに、青い。青空の青とは少し違った青に見える。
汽車が通る。
汽笛が鳴る。
風が吹く。
緑だと思っていたものも、よく見ると、「緑」だけではない。小っちゃいころ不思議に思った「ビリジアン」やら「エメラルドグリーン」やら、細分化しなければ説明がつかないほど複雑だ。
青空だってそうだ。青空の青は「空色」かもしれないが、あの山々の青はなんと呼べばいい?
小難しさが頭を回転し始める。
そして、わかったのだ。
私はわかってしまった。
『ただ在ればいい』
そんな単純なことがずっとわからないままだった。
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理由を求めると、物事は複雑になる。
わかろうとすると、物事はあまりにも難解だ。
複雑だけれど、難解だけれど、もともとは『ただ在る』だけなのだ。目の前に広がる森のように。川のように。山のように。
ただ在る、それでいいじゃないか。
ただある
ただあある
タダアアル
タダアーーール
ジャンポーーーール
ニルヴァーナの訪れである。
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自分がいかに「在る」という事実に目を背けてきたか、それが身にしみた。本質に目を向けすぎて、実存をないがしろにしすぎた。
それがわかってから5セット繰り返し続けて、そのたびにトビまくってやった。感覚が思考を凌駕する場所。私にはここが必要だ。
風呂から上がり、休憩所に向かった。
休憩所にはハンモックが3つ並んでいる。
40近いおじさんだが、そんなことは関係ない。ハンモックが実存し、私が実存している。だから、ハンモックでたゆたうおじさんもまた実存するのだ。
ただ、ハンモックでウキウキするおじさんが『在る』だけだ。
それでいいのだ。それだけでいいのだ。