30,中央区南6条 円山温泉
「ふつう」とは何か。
40年近く生きてきて、まだ明確な答えが出ない。
ありもしないふつうだとか、ありもしないまともだとか、幻のイメージの中、ららら
ハイロウズの『即死』を口ずさんでは、おそらくふつうにも、まともにもなれない自分の身を慰めてきた。
あるときは「ふつう」を憎み、あるときは「ふつう」にあこがれ、異端を気取ったり、エキセントリックを身にまとうための努力をしたこともあった。
中年と自他ともに呼ばれるようになり、かつてほど「ふつう」に苦しめられることはなくなってきた。歳月が自分に対するあきらめが心を満たしつつあるのかもしれない。
「ふつう」がなにかわかったわけではない。ただ、理解するのをあきらめただけだ。私が「ふつう」を手に入れるときはもうないのかもしれない、そう思った矢先に出会った。
人生の難問の答えの一端が見える場所。それが円山温泉だ。
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円山地区は札幌市内で最高峰の高級住宅地区だ。医者は円山に集まるといっても過言ではないだろう。いや、ただのやっかみだが。
円山温泉は、そんな中にある銭湯だ。さぞかし豪勢で、絢爛たる設備があるのだろう、と勝手に考えていた。
しかし、銭湯スタンプラリーの円山温泉の説明欄にはただ一言。
〈サウナ(乾)〉
としか書かれていない。
いったい、どんなところだろう。円山に対する偏見や羨望と、ミステリアスな説明に好奇心が刺激される。
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入り口は男女別、券売機制、そして、入るとすぐ合流スタイル。かつて神宮温泉で経験したすかしタイプだ。
入ってみると、外から見えるよりもずっと広く、ずっと高い。脱衣所からして高さがあり、たぶん実際よりももっと広く感じているはずだ。
そして、あまりにも白い。
それなのに、特段かわった特徴があるとは言えないのだ。しいて言えば、貫目のわかる体重計があることくらいだろうか。
ここは銭湯だ。銭湯すぎるくらいの銭湯だ。
湯屋の華咲く浴場の天井は、脱衣所よりもさらに高い。音楽などは一切流れておらず、音という音は高い天井に吸い込まれている。その白さと静けさは、まるで精神と時の部屋だ。
奥に見えるドット絵の渓流の前にある同じ大きさの浴槽には赤ワインと白ワインみたいな湯が入っている。赤はぬるめ、白は熱め。
サウナも脱衣所や浴場同様、見た目以上に広い。10人は入れるだろうか?やはりここにも音がない。温度計は120℃を指しているが、そんなものどうだっていい。完全に空間の力に圧倒されている。静謐。その空気はサウナの中にまで漂っている。
雰囲気もあいまって異常なまでに高まった恍惚感を抱え、水風呂へといそぐ。ミニサイズだが、キンキンタイプだ。
体をギュンギュンに冷やしながらも、耳に届くのは銭湯的な営みのみ。時間の感覚などもはやない。
時間からの脱却である。
だっきゃくであり、はっちゃくである
あばれハッチャクである
アバレハッチャクッテナンダッケ?
チャック?チャックウイルソン?
アレ?トンデル?
アー、オレトンデンワ
イツノマニカトンデタワ
1発ニルヴァーナである。
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おしつけがましさや、自己主張の類を全く感じない空間が広がっていた円山温泉。尖った部分がない銭湯だった。
つまり、円山温泉は「ふつう」なのだ。
それも長い間ずっと洗練され、研ぎ澄まされ、静謐なまでに慎み続けた「ふつう」だ。
「ふつう」はもっと凡庸というか、平凡なもので、ゆえに多数派となり、個をのみこむと思っていた。
しかし、「ふつう」を突き詰めて、突き詰め切った先には「わびさび」の世界すら漂うことをこの歳になって初めて知った。まさか銭湯でこんな学びがあるとは思わなかった。
今まで、「ふつう」から弾き飛ばされ続けたと思っていた私でも「ふつう」を感じられる場所。しかも、その究極と言ってもいい場所。
さすが円山にある公衆浴場である。
次回、北区新琴似『福の湯』