extra13)中央区北10条 さかえ湯
さかえ湯は万人に好かれる銭湯だ。
誰に紹介しても「素敵な人。いい人見つけたのね」と言われる、間違っても友だちから「え?あいつのどこが好きなの?」「考え直したら?」「あんた、昔っから変わった趣味してるもんね」など聞かれる余地などないパートナーのような。
『君がいるだけで』や『バックトゥザフューチャー』みたいに非の打ちどころのない名作のような。
それがさかえ湯だった。
だから、廃業するなんて夢にも思わなかった。
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緊急事態宣言のさなか、札幌市民は区を越えた移動が見つかると打ち首獄門市中引き回しにされてしまう、とごく一部でまことしやかにささやかれたり、ささやかれていなかったりしている。
中央区(ほぼ西区)に位置するさかえ湯に行くには、東の人間である私は西側の人間のふりをしなければ危険が危ない。だが、なんとしてでもさかえ湯とさようならをする必要がある。なんとしても、だ。区切りをつけなければ終わりが見つけられない。
さようならは私のためにある。
だから、闇夜に紛れることに決めた。
これまで世を忍ぶ仮の姿で生きてきた。闇に隠れるのは私の最も得意とするところだ。誰にも見つからず、西区民、中央区民の目をごまかしてやる。この日のために私は自分をごまかしながら生きてきたのだ。
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最初で最後の夜のさかえ湯。
中秋の名月を間近に控えた月明かりがフィナーレを迎える銭湯を照らす。
なくなるのか、ここが。
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少なくない人たちが、物言わず、黙々と湯を浴び、サウナに蒸され、露天の人工芝に横たわっている。
夜のさかえ湯。
朝早い場外市場の人たちはきっと使わない時間帯だ。今いるのは市場に関係のない夜の住人達ばかり。私もその中の1人だ。
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サウナで蒸され、水風呂で冷やされた体に秋の空気が染みる。寝転ぶ裸の男たち。夜空に浮かぶ月。その横に赤く光る木星。
ここにあるすべてがあと幾日かでなくなる。ジャグジーも、ボディシャワーも、ロッカーも、フロントも。
それをずっとなくならない月が見ている。その月をなくなる場所から見ている。たぶん、見ている私もやがてなくなる。
夜風が体をなでる。
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ひとりひとり仕切られているカランでも、物思いが続く。
この仕切りも、このカランも、更地になる。
バックホーがうなりをあげる。シャワーヘッドたちがトンパックに詰め込まれる。お湯の抜かれた浴槽に土煙が舞い込む。
いずれの話ではない。必ず来る未来の話。しかも、やがて間もなく。
気もそぞろになる。
頭の中は激しく動いているのに、自分の動作に意識が集中しない。それでも、いつものルーティーンは続く。
洗髪
洗身
歯磨き
整髭
ショリ
……え?
……ショリ?
…………!?
あ
あーーーー!!
あごひげそっちゃったじゃーん
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鏡に映った私の顔はつんつるてんだ。
ずいぶん久しぶりに見た気がする。
最初で最後の夜のさかえ湯。つんつるてんの中年男性。それを眺める中秋の名月。
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たとえば、君がいるだけで心が強くなれること。なにより大切なものを気づかせてくれたね。
ありがちな罠につい引き込まれ。思いもよらない悔し涙よ。
自分の弱さも知らないくせに。
強がりの汽車を走らせていた。
めぐり合ったときのように、いつまでも変わらずにいられたら。
うおううおうちゅるーはー
うおーうー
ちゅるはー
うおーうー
ちゅーるはー